文章を書くのは苦手だし、筋道立った思考だって苦痛だ。
それでも、自分が書かなければと思ったマンガの感想を記しておきます。

2016年8月29日月曜日

三文未来の愛のゆくえ 庄司創「白馬のお嫁さん」(講談社)

 庄司創「白馬のお嫁さん」(2014-2016)は、近未来の日本で男子高校生たちが嫁探しに奮闘する婚活マンガである。
 遺伝子改造こそされてはいるが性的には異性愛者の男性の清隆は、3巻で自身が抱えている問題が解消されたことで突如として婚活仲間の学への恋愛感情を自分が持っていることに気付く。学は外見こそ可愛らしい女性に近いが、人工的に遺伝子を組み換えられて特殊な生殖器を持つ「産む男」であり、恋愛対象は異性の女性のみである(「産む男」の性的指向は様々であり、同姓である男性を好きになるタイプも存在する)。性別だけでなく、学の理想のタイプからも自分がかけ離れていることから、清隆はこの恋愛から降りることを選択し、大切な友人である学の幸福を支えることもまた己の幸福であると強引に自分を納得させようとする。
 一方、密かに清隆の自分への気持ちを知った学は、ヴァーチャルルームで仮想の清隆の胸に抱かれてみても恋愛感情を一切感じることが出来ないことを改めて認識する。清隆へ感じている学の親愛の情は、あくまで友情であって恋愛感情ではないのだ。ただ、ロボット注射のアシストがあれば、自分の性的指向を変化させ、同姓である清隆を好きになることも出来るかもしれないと考える。
「でも そこまでするべきなんだろうか」(「白馬のお嫁さん」3巻186頁)
 それをしてしまったら、学は清隆に限らず他の人間だって同じように受け入れてしまえることを意味する。学は自分が理想とするような女性からアプローチをかけられている最中でもあるのだが、清隆を拒否して彼女を受け入れることで抱く罪悪感だって、薬を利用してしまえば消すことが出来るのだ。女性的な外見を持つ学に対して、素直に異性へ向けるのと近い恋愛感情を抱ける清隆と較べ、自分自身に対しても相手に対してもより難しい選択を迫られる学の煩悶が、スリリングなまでにこちらに伝わってくる。学は清隆の気持ちを受け入れることが出来るんだろうか? 

 愛と聞くと、ジョン・カサヴェテスや増村保造の映画作品で描かれるような激烈なものがまず頭に浮かぶが、作中「産む男」の一人である主馬のエピソードで描かれているように、恋愛至上主義ではなく、恋愛から自由になる心の在り方だってある。相手に胸を一度もときめかせることがないまま、それでもその人を生涯の伴侶として受け入れることだって出来るのだ。
 人は恋をすると、それまで客観的に見れていた筈の世界が、好きになった相手一色に染まってしまい、それ以外のものが一切目に入らなくなってしまう。そういう時、人は周囲を顧みず相手のために自分が持つ全てをかなぐり捨てて愛に殉ずることだって出来る。一般的にそういう純愛は尊いものとされるが、じゃあ恋から始まっていない関係や、打算や他者への配慮が混じった「不純」な恋愛は、紛い物なのだろうか? 自分は「真実の愛」のようなもっともらしい言葉の方にこそ迷信を感じる。未来の技術のアシストがあれば、脳内の化学物質の分泌を薬で調整することによって、嫌いな相手へすら愛情を感じることが可能になるかもしれない。人が自分自身の意思で自由に選択出来ていると思いこんでいるものの大半は、実際は脳内物質の働きや社会制度によって大きく左右されるものでしかないのだろう。不倫や重婚だって、実際はそれ自体が悪なのではなく、今の社会制度でたまたま悪いことだと規定されているだけでしかない。人が疑いなく自明のものとして受け入れているほとんどのことは、たまたまそうであっただけなのだ。
 3巻の終盤、学が恋愛感情を抱いていない清隆に対してどのような決断を下すのかが描かれる。これまで清隆とシェアハウスで暮らす「産む男」たちが繰り広げてきた恋愛の騒動で得られた知識や教訓も学に影響を与えているのかもしれないし、学が清隆に告白する「不安やつらさを含んだ複雑な好きの美しさ」の下りも一つの答えになっているのかもしれない。ただ、WOLVESによって「産む男」プロジェクトが誕生した経緯の真相等と較べると、清隆の気持ちを受け入れるに到る学の心情の変化の部分は、上手く表現し切れているとは思えない。その飛躍は理屈を超えたものなのかもしれないが、物語展開の盛り上がりの勢いで煙に巻かれてしまっているようにも感じる。
 それでもなお、これは読まれるべき果敢な作品であることに間違いない。強引な言い方かもしれないが、ジェンダーを取り扱った他の作品が辿り付けていない高みへまで、このマンガは行きつけていると思う。

 3巻の単行本のカバー裏には、病院内で緊張した面持ちで見守る清隆の傍らで、瞼を閉じたままの学がロボット注射を受けている場面が描かれている(おそらく同性への性的指向を持つことが出来る化学物質を分泌させるナノマシンのようなものが注入されているのではないだろうか)。個室へ案内され、薬が効き始めてからは清隆の顔を見つめ続けるよう学は看護師から指示を受ける。そっと目を開いた学は、清隆とお互いの顔を見つめ合う。学の表情は病院の窓から射す陽光のように柔らかく、穏やかだ。二人の表情に微かな戸惑いは残っているものの、悪い不安のようなものは見当たらない。
 本編に含まれていないのが悔やまれるくらい、この場面の美しさには震えてしまう。未来の科学技術で変容した性や愛のありようが、グロテスクにでもディストピアのようにでもなく、ごく自然に肯定的なものとして描かれていて、畏敬の念すら抱いてしまう。こんな風にテクノロジーで作られる愛の形があっていいし、未来の世界には実際にありえて欲しい。「産む男」が存在する世界の方が、自分が今生きる「産まない男」しかいないこの世界よりも、ずっと良さそうに見える。きっとグレッグ・イーガンにだって、村田沙耶香にだって、こんな未来のありようは幻視出来ないだろう。二人が生きる世界が羨ましい。

「白馬のお嫁さん」3巻より
ロボット注射を受ける学とそれを見守る清隆

2016年4月18日月曜日

地上より彼方へ 竹良実「地の底の天上」「辺獄のシュヴェスタ」(小学館)

 デビュー作でいきなり完璧な作品を描いてしまうマンガ家がいる。例えば「三文未来の家庭訪問」(2009)の庄司創がそうだし、「地の底の天上」(2014)を描いた竹良実もまたそういう作家の一人である。
 中編「地の底の天上」は、紙幣の原版彫金師と贋作師である二人の男女が生きた様を描いた作品である。贋札を題材にした創作物として真っ先に思い出すのは、ロベール・ブレッソンの映画「ラルジャン」だが、「地の底の天上」もまたそれに劣らぬ水準の傑作だと言っても言い過ぎにはならないだろう。この作品で語られる内容の気高さには、読んでいて思わず頭が下がってくる。何度読み返しても、読むたびにその大きさに圧倒されてしまう。孤独を糊代にして繋がる人間の魂を描いた作品として、自分はこれ以上のものに出会ったことがない。

 中世の西欧で流通していた贋札という反社会的なものを介して、名も顔も知らない二人の男女がお互いの精巧な技術から芸術を見出し、その背後にいる作者の存在を意識する。地の底とも言える暗く冷たい作業場で自分が習得した技術を、この相手なら理解してくれるに違いないと。生まれも立場も違う見知らぬ二人が、相手がどのような姿をしてどのような人間なのかもわからないまま、ただその紙幣を通してお互いの存在を思い続け、支えとするのである。彼らは現実においては社会から疎外された弱い存在だが、紙幣とその贋札を媒介とし、実は自分が決して一人ではないことを知る。自分のいびつな魂には、対となるべきものが存在するのだと。
 彼らがその生で世に誇れる唯一の存在証明は贋札の技術であり、例えどれだけ今生において孤独だとしても、紙幣の作成へ没頭している間だけは天上の境地まで駈け上がることが出来る。
 ひょっとしたら、彼らはこの地上で対面して会う必要すらないのかもしれない。空想上の天上において、二人の魂は生身の肉体以上に強く繋がることが出来るのだから。とはいえ、この作品のクライマックスは、実際に二人がこの地上において出会う場面なのである。
 馬車の窓越しに握られる二人の肥厚した皮膚に覆われた荒れた手と手が、相手が自分の不完全な魂のかたわれであることをお互いに認識させる。単なる手のまじわりだが、それがこれほどまでに雄弁なものになるだなんて。例えどんなにエロチックな濡れ場であろうとも、このシークエンス以上に二人の繋がりを深く感じさせることは出来ないだろう。
 貨幣といういかにも俗な媒体に、それとはかけ離れた崇高な魂を仮託して、地上から天の彼方へまで繋がる見事な奏でが聞こえてくる。二人の魂が結びついてゆくみちすじが、この上なく荘厳な調べとなって、読む者の胸を響かせるのだ

 現在連載中の「辺獄のシュヴェスタ」(2015‐)もまた、中世の西欧を舞台にした歴史ものである。「地の底の天上」と同じように、歴史の余白には、今では名も残らぬ人たちによってつむがれた知られざる営みがあった。作者は何も知らない読者に、ある少女の密かな戦いの真実をひもといてくれる。

 魔女狩りで家族を失った少女エラは、修練女として収監された修道院の中で修道会の総長への復讐を誓う。復讐を完遂するために、どれほど凄惨な状況に身が落魄しようとも、己の中の魂を相手に明け渡そうとしないエラの気位の高さには感服する。だが、エラには人間離れした胆力があり、時に賢者のような洞察を持ち、時に鬼神のような選択を採るため、いかにも人間的な弱さを披歴してくれる彼女の仲間達とは違い、読む側からの単純な感情移入を許さない。
 「辺獄のシュヴェスタ」からは、高い水準での倫理性のようなものが感じられる。倫理と言っても、それは単純さで世界を無神経に切り分けてしまうような意味での倫理ではない。聞こえのいい正論や建前をふりかざしたりもしない。むごたらしい暴力と常に隣り合わせであるこの作品世界の前では、そのような無神経さは通用しないのである。
 考えることなしに世に流通されている倫理を盲目的に信じてしまえば、真の意味での倫理からは遠のいていく。例えばエラが放り込まれた修道院で信じられているキリスト教で言うならば、真に倫理的な信徒がキリスト教が説く倫理について真摯に考えれば考える程、その信徒はその強い倫理性ゆえにキリスト教の教義を根幹から切り崩し、内側から食い破ってしまうことだろう。
 このマンガの中でのキリスト教は道具立て以上のものではないかもしれないが、エラ自身もまた己の倫理と格闘をしている。素朴に信仰されている倫理に目を曇らされないように、同時に倫理を足枷だとして投げ捨てないように、そしてどちらにも与せず、彼女は己の中の真実とどのように折り合いをつけて行くのか。読者に出来ることと言えば、彼女の行く末を案じながら、作者の語りに耳をそばだてることだけではあるが。


「辺獄のシュヴェスタ」1巻より
屈辱的な貞操の検査をされようと、彼女は彼女自身の王として君臨し続ける



2015年11月3日火曜日

天国を出ていく 安永知澄「赤パン先生!」(エンターブレイン)

 大人に比して子どもを主役にしたマンガ表現が多い一因として考えられるのは、大人になると社会のルールと妥結するための退屈な常識を身につけざるを得ないのに対して、子どもはむきだしの現実に対して社会に飼い慣らされる前のナマの状態でぶつかっていくことが出来るからだろう。しかし、悲しいかな。いつか子どもの時間には終わりがくる。だから、子どもを主役に据えたマンガ表現の多くは、通過儀礼を主題にしている。子どもから大人へと変化する方法は作品によって多種多様だ。死を知ったり、内なる邪さの手なずけ方を学んだり、この世界が自分だけのものではないと認識したり。その一番過激な例として、楳図かずおの諸作品が挙げられる。子どもは生まれた時から時限装置を抱えており、タイマーが0まで減算した瞬間、本人の意思とは無関係に、半ば暴力的に大人という存在に変身させられてしまう。大人は子どもとは完全に異質な生き物であり、決して後戻りすることが出来ない。この認識の透徹さ。

 安永知澄のマンガ「赤パン先生!」(20122014)もまた、通過儀礼を主題にしたマンガ作品の一つと言える。子どもの頃の、まるで天国に身を浸しているかのように安全な感じ。世界と自分の境目がないまま一緒くたになって、悪い予感が一切しない幸福そのものの状態。エリナー・ファージョンの物語作品で描かれる天国の住人のように眩しい小学生のきらが、一夏を過ごしていく中で経験する出来事に苦悩し、傷を負い、もはや子どものままではいられなくなる物語である。きらが泳ぐプールの水しぶきや泡ぶくが、生き物のように彼女にまとわりつき、その幸福をプリズムのように乱反射させる。彼女の天国の時間の紗がかかったうつくしさに、読む者は自らの記憶をなぞらえながら酔いしれることだろう。

 安永知澄のマンガ作品を読んで目をひくのは、その独特な身体性とも結びついていること細かな心理描写である。というのも、自分が子どものときに確かに感じたが、他の誰とも共有できないまま忘れ去ってしまっていた後ろめたさやわだかまりのような名状しがたい感情が、「そういう感情は確かにあった」とちゃんと作品内に記録されているからである。人が大人になるにつれ不要なものとして捨て去った言外のものを、この作者はずっと手放さずに保管してきたのだ。だからだろう。時に、自分が忘れていた筈の秘密を覗き見られたかのような面映ゆさを感じるのは。
 ただ一方で、描写からじめじめとした湿っぽさや暗さ―誤解を恐れずに言うと、悪い意味での文学性みたいなものが匂い立ってくる時もあり、それもまた安永知澄の作家性なのだろうが、自分とは上手く関係を結べず居心地の悪さを感じることがある。それでも、きらの腹違いの姉・庸子のような胸に穴が穿たれた大人だけではなく、きらのようなすこやかな子どもが描かれる際、その暗さは押し留められ中和される。

 2巻の終盤で、天国を追われ羽根をもがれ打ちひしがれたきらは、密かに恋慕の情を抱く臨時の水泳教師・鮎川が運転する車の助手席に座ることになる。きらのことを子どもだと思い込んで、異性として気にも留めていない鮎川のすぐ横で、きらは子どもから大人という存在へ脱皮しかかっているように見える。ほんの少し前まで天国の住人だったきらが、無意識にでも性的なものを身に纏わせていることに息を呑む。きらが無事に家まで送り届けられた後、姉の庸子は鮎川とその夜逢引する約束を取り付ける。車に残ったきらの気配を、自分自身のもので塗り潰すためにだ。実は庸子と鮎川は秘密裏に交際しており、きらはまだその事実を知らされていない。庸子は本来自分だけのものの筈だった両親の愛を一身に受けて産まれ育った妹のきらに対して、恐れとも嫉妬ともつかないコンプレックスを抱いている。まだ心身ともに成熟し切っていないきらのことを侮ることなく、ちゃんと一個の女と捉えて警戒する庸子の認識から凄みを感じる。
 ほとんど台詞のない4巻の最終話では、叙事的でありながらもほのかな抒情を漂わす物語の幕引きが描かれる。息を切って山道を突っ切り、ダムを通り過ぎた先にある高台に立つきらは、自分が住む村落の景色を一望にし、思いをはせる。この場所には自分がいて、家族が住む家があり、クラスメートと過ごす学校がある。そして、その外側には庸子と鮎川が移り住むさつき市や、広大な世界と大勢の見知らぬ他者が存在していることだろう。彼女の将来の可能性も無限に広がっているかもしれないが、同時にそれはその可能性が幸福なものとも彼女の思い通りにいくものとも限らないことを意味する。世界を俯瞰する視座は、きらと世界の合致を解きほどき、他者の存在を彼女に知らしめる。彼女はもう二度と天国には戻れない。この夏に経験した出来事―むきだしになった現実を目の当たりにして、この世界が自分だけのためのものではないという秘密を知ってしまったからだ。きらが記憶に刻もうとする胸の鼓動は、そっと子どもの時間の終わりを彼女自身に告げている。この最終話のつつましいうつくしさは、いつまでも忘れ得ないだろう。

2015年11月1日日曜日

セックスの正しい手続き 星里もちる「夜のスニーカー」(集英社)

別段淫蕩そうには見えない女性から中川さんと呼ばれる男性が言外でホテルに誘われる。シャワーを浴びる女性をベッドで待つ中川は、「やっぱ無理」と何もしないまま帰ることを決断する。どうやら彼は性に対して保守的な考えの持ち主のようだ。終電のない時間帯にホテルを飛び出しても問題はない。彼の趣味は歩くことだから。 
 ここまでたったの一頁。彼がどのような価値感を持ち、どのような趣味を持っているのか、この作品を構成する二大要素「セックス」と「ウォーキング」が効率的な説話のうちに示される。この語りの簡潔さ、経済性。

 星里もちるのマンガ「夜のスニーカー」(2011)は、セックスに臆病な男性と、そもそも男性経験がないまま処女をこじらせた女性との関係を描くという、いかにも現代的だが、その実他ではお目にかかったことがない題材を扱った恋愛劇である。
 「セックスはうんこ見せ合うみたいに恥ずかしいことなんだ。俺にとってはそれくらいの覚悟が必要なんだよ」( 6 頁)
 異性とセックスをするには適切な手続きが必要だと説く主人公の会社員・中川の言動からわかるように、この作品はセックスを主題としながらも、そう簡単には恋人同士の濡れ場へと読者を導いてはくれない。中川の性交渉への慎重さは、過去の恋愛で受けた手痛い仕打ちに端を発しており、そのトラウマは早期の結合の成就を阻害することになる。
 一方、ヒロインである女性のミサキの方はより難物である。彼女は自意識が肥大化し、上手く現実の自分と折り合いをつけることが出来ないでいる。彼女は慎重過ぎて、異性に限らずあらゆることに対して先回りをして考えてしまう癖があるのである。そして、そのような自分が相手に負担を強いていることを自覚しており、自縄自縛の状態に追い込まれ、身動きがとれないでいる。なんという入り組んだ悲しみ。まさにコンプレックス。合コンのシークエンスでのミサキの異性へ対するかたくな過ぎる態度を目の当たりにして、その時点で彼女に好意を持てる者は多くはないだろう。でも、先回りをして予防線を張ることで自分と他者との間に安全な距離を保ち、お互い傷つかない人間関係を装う状況を想定するのであれば、少なからず身に覚えを感じることが出来る。人間関係は確かに面倒だが、本来他者と付き合って行くということは、その面倒さを我が身に引き受けることでもある筈だ。その面倒さを避けようとすればするほど、その人は社会から疎外されてゆくだろう。ミサキのコンプレックスの根にあるものを思えば、彼女が迷い込んだ袋小路は決して他人事のようには思えない。

 同作者の傑作「りびんぐゲーム」(1990-1993)ではバブル景気崩壊前後における都内の住宅問題を扱いながらも、同時に居場所とは何かということを若い男女が探し出そうと奮闘する物語が描かれていた。一方、この作品では夜の都内を共に歩くことを通して、若い男女間の心理的な距離の縮まりが描かれる。他人との距離をはかりあぐねた男女が、地図を使いルートを開拓し、時に反目し合いながらも歩調を合わせることでお互いの適切な距離を探り当てようと苦闘する。決して満ち足りた男女ではない。現実に対して何らかのわだかまりや疎外感を抱いているはぐれ者の二人である。孤独な都市生活者同士が、その孤独さを糊代にして共鳴し合い、自らの虚栄心を克服する。まるで山田太一脚本のテレビドラマのような設定の妙にうなってしまう。

 性に対して慎重であることは、道徳や倫理が所詮建前であることを無意識にでも理解している現代人にとって、別段礼讃される美徳にはなりえないように、だからといってあけすけに性に奔放であることが称揚されている行いというわけでもない。結局、セックスへの正しい手続きなんてあるべき筈もないからだ。ただ、誰しもが性に対して奔放になれるわけではない。他人との距離の保ち方をはかりあぐねたミサキのような人間は、恋人との踏み込んだ関係を作ることすら慎重になってしまう。セックスは自分と相手との距離をなしにして、ゼロ距離で結合するのだから。
 とはいえ、セックスへ到ることで男女間の問題を解決できるという考え方は、短絡的なファンタジーであるように思える。恋人同士の生活はその後もずっと続いてゆくし、そこにこそ真の困難が立ち塞がっているのだから(勿論、星里もちるは男女のセックスが成就したその先を描いてきた作家ではあるが)。それでも、セックスの成就が当事者たちにとって切実な救済になりうることもある。この作品では、お互いの苦痛を癒やし愛情を確認し合うための物語上要請として、クライマックスに男女の結合のシークエンスが配置される。互いの距離がゼロになる、いわば心理的にも肉体的にも絶頂を迎える瞬間が同時に訪れるのである。面倒ではあるが二人にとっては適切な手続きを経て彼らはようやくお互いの距離を踏み越えることが出来たのだ。そのように性行為をとっかかりにして、心がわだかまっている若い男女のこわばった関係を、この作品は丁寧に解きほぐしている。

2015年10月31日土曜日

世界の気配 もぐこん「転校生」「アスヘリカル」「気配」、そして「街の日」(サークルmogravity装置)

 絵に関しては意識が高いのに、描かれる内容に関しては意識が低い。一見お話めいたものがあるようで、気分しかない。そういうマンガ表現をよく見かける。なんとなく寂しいとか、なんとなく憂鬱だとか、なんとなくの感傷的な気分めいたものしかない。安易に気分へ耽溺するだけの作劇からは、思考停止に近いものを感じる。考えることを手放した瞬間、その表現の値打ちは損なわれてしまうことだろう。
 一方、例えば現代を舞台に架空の悪を登場させ、その悪に立ち向かう正義の物語を素朴に描いたところで、もはや空しさを免れることは出来ない。そのような状況が作りものだということを、既に人々は気付いているからだ。賢明な登場人物であるならば自らが行使する正義の正当性に疑念を抱くだろうし、作者自身も悪とは何かという原理的な問いへと対峙せざるをえなくなるだろう。
 現代で物語を作るということは、作者がどのようにこの世界へと向き合っているのかという態度のあらわれに他ならない。だからこそ、物語に意識的であろうとするがゆえに安直な物語から距離をとり、逆に気分の罠に躓いてしまうことも起こりうる事態だと推察する。
 公平に見て、マンガ作家もぐこん(サークルmogravity装置)の全ての作品がその罠から逃れているわけではない。気分の方に寄っている作品も見受けられる。しかし、いくつかの作品では罠をすり抜け、他のマンガ表現にはない何かを描き出すことに成功している。では、その何かとは何か。

 いささか間の抜けた女子高生イトネの転校初日の一日の様子を描いたユーモラスな中篇が「転校生」2010である。(なお、単行本版2010とWeb 公開版(2007)では内容に違いがあり、単行本版は「転校生」と「放課後の残響」に加筆が加えられ再構成されたものとなっている。ここでは主題が明確になっている単行本版の方で話を進める)。
 初登校中に道に迷ったイトネは、美人だが風変わりな隣人・英子の案内を得て、無事学校まで辿りつく。学校ではクラスメイトから過剰なまでの歓待を受けるのだが、放課後居眠りから目を覚ますと、先ほどまでイトネがいたのとは全く別の教室におり、別の級友たちの姿がある。「転校なんてしないし」と独白するイトネは級友たちにさきほどまで過ごしていた世界を夢の話だとして話すが、それは本当にイトネの夢だったのか。それとも、今いる現実の方が夢なのか。
 大林宣彦の映画「転校生」は、男女の意識と記憶が入れ替わってしまう話だったが(勿論入れ替わってしまうのは意識と記憶ではなく身体の方だとも言える)、もぐこんのマンガ「転校生」は、イトネが存在する世界そのものが入れ替わってしまう話を描いている(勿論入れ替わってしまうのは世界ではなくイトネの方だとも言える)。つまり、この物語では世界そのものが転校してしまうのである。どちらが夢でどちらが現実かという区別はない。イトネが対面している世界がどちらの世界であるにせよ、イトネにとってどちらも等しく疑いようない現実である。
 65頁でフレームを切り取るカメラポジションが大きく切りかわる。それまでイトネと寄り添うように置かれていたカメラが、作品終盤になって学校の遠景を捉える位置に移動するのだ。 68頁では黒沢清の映画作品のようにカーテンがはためく教室の方へ、クレーンで移動しているかのようにカメラが近づいてゆく。外から覗ける空っぽの教室内には、クラスメイトが美術の時間に書いたイトネの似顔絵が貼られており、このショットで物語は不意に終わりを告げる。教室の壁一面貼られた似顔絵はいずれもイトネ本人とは似ておらず、見るものへ不安を抱かせる。この即物的なショットは強い印象を残す。それはこの得体の知れない客観的な視点の連なりから、何らかの気配を感じ取っているからなのかもしれない。思うに、この場面は目には見えない世界の気配を描こうとしているのだろう。具体的なカーテンの揺れといくつものイトネの似顔絵から、人気のないこの空っぽの教室で幾重にも息づく世界そのもののざわめきを。

 短編集「テッサータイプ」(2012)に収録されている「アスヘリカル」(2011)は、死んだ姉の部屋から気配を感じた妹が、姉と過ごした過去の時間を反芻する短編である。
 記憶の中の姉を呼び覚ましている妹の傍らで、姉は幽霊として存在している。粗野で美しい姉と対照的に悠長な妹の対比が面白く、描写される過去の情景は妹の記憶なのだろうが、気配以上の実体はない姉が妹の心境や独り言に相槌を打ったり、描写される過去の時間が不意に前後したりと反響し、まるでこの作品の構成が記憶そのもののように混濁している。妹は「姉さんが撮った最後の写真が見てみたい」と心境を独白する。姉は街の写真を撮りに深夜に外出した際事故死したのだ。
 終盤の67頁から、視点は妹の記憶の域を超え、事故直前の姉の様子を描いた情景に変わる。亡霊である姉自身の記憶だろうか。しかし、フレームは徐々に客観性を強め、姉の記憶の域を超えてしまっているように見える。それならば、これは一体誰の視点なのだろうか。67頁では交番のライト、屋内、屋根に潜む猫が描かれている。単に風景を描いただけのショットではないだろう。このショットでは、無生物であるものも含めてあの夜の姉を取り巻く現実が姉の姿を見ていたということを示唆している。それらを、世界と言い換えてもいいだろう。このシークエンスを読んでいると、まるで世界自身が過ぎ去った時間を再発見しているかのように錯覚してしまう。

 短編「気配」(2015)では、郊外の廃屋に身動きできない状態で監禁された小学生の少女を、その名の通り気配を擬人化したかのような少女が見守る短編である。
 気配そのものである少女は、物理的な意味では実体を持たず誘拐された少女の緊縛を解くことは出来ない。目隠しされた少女は気配に対して不安を抱くが、気配である少女に悪意はなく、そのすれ違いがほほえましい。最終的には気配は間接的な形で少女の発見を手助けすることが予見され、猟奇的な題材とは裏腹に善意を感じさせる話となっている。
 かくして、これまでもぐこんの作品で変奏されてきた気配という題材が、ここへ来て作品のタイトルへとまで到ったのである。こうなると、気配とはもぐこんがマンガ作品で描く重要な主題の一つといって間違いはないだろう。

 もぐこんが描こうとするものは、決して万人にとって咀嚼しやすいものではない。反時代的な安直な物語ではなく、だからといって単なる気分めいたものに浸っただけのお話でもない。その多くは目に見えるような具体的なものではなく、気配であったり、記憶であったり、場所であったり、この世界に潜む通常の視点では見過ごされかねない題材をマンガならではのやり方で探求している。
 そのような困難な題材に挑んでいる他のマンガ家といえば、真っ先に思いつくのは高野文子の名前である。そう考えると、もぐこんは高野文子の系譜に位置していると言えるだろう。そして、絵的な面でのみ多く見受けられる他の高野文子フォロワーとは一線を画しているとも言える。
 実際、短編集「シンプルライフ」(2010)に収録されている短編「街の日」(2006)では、高野文子の短編「美しき町」の主題を、ノスタルジーに誤解されかねない過去の視点からではなく、現代の視点からの物語に更新している。「街の日」の主人公ミキはこう独白する。
 「でも本当のことを言うと わたしはこの街の風景がそれほど好きじゃないんだな」(「シンプルライフ」38頁)
 もはや「街の日」の街には、「美しき町」のような昭和ののどかで美しい風景は存在しない。高野文子が参考にしたという川島雄三の映画作品のような情景から遠く離れ、ミキが住む街にあるのはもっと味気なく均一化した風景だ。それでも、亡霊のように謎めいた恋人の言葉に誘導されミキが辿りついた展望台から街を見下ろせば、殺風景なマンションやイオンがそびえ立つ郊外の閉塞した風景からも肯定の意思を感じ取ることが出来る。きっとこの時ミキが見た風景も経験した時間も、遠い未来には誰からも記憶されずに忘れ去られてしまっているだろう。「アスヘリカル」の姉が事故死した夜のように。
 「そういうものだ」(「テッサータイプ」68頁)
 だからといって、カート・ヴォネガットのような無常感はここにはない。それでもいいのだ。他の誰に知り得なくとも、その時間はこの世界に確かに存在したのだから。かつて美しき街の風景の時間があったように、今ではイオンやジャスコに彩られた風景が存在し、それらは形を変えながら遥か先の未来まで続いてゆくだろう。