文章を書くのは苦手だし、筋道立った思考だって苦痛だ。
それでも、自分が書かなければと思ったマンガの感想を記しておきます。

2015年10月31日土曜日

世界の気配 もぐこん「転校生」「アスヘリカル」「気配」、そして「街の日」(サークルmogravity装置)

 絵に関しては意識が高いのに、描かれる内容に関しては意識が低い。一見お話めいたものがあるようで、気分しかない。そういうマンガ表現をよく見かける。なんとなく寂しいとか、なんとなく憂鬱だとか、なんとなくの感傷的な気分めいたものしかない。安易に気分へ耽溺するだけの作劇からは、思考停止に近いものを感じる。考えることを手放した瞬間、その表現の値打ちは損なわれてしまうことだろう。
 一方、例えば現代を舞台に架空の悪を登場させ、その悪に立ち向かう正義の物語を素朴に描いたところで、もはや空しさを免れることは出来ない。そのような状況が作りものだということを、既に人々は気付いているからだ。賢明な登場人物であるならば自らが行使する正義の正当性に疑念を抱くだろうし、作者自身も悪とは何かという原理的な問いへと対峙せざるをえなくなるだろう。
 現代で物語を作るということは、作者がどのようにこの世界へと向き合っているのかという態度のあらわれに他ならない。だからこそ、物語に意識的であろうとするがゆえに安直な物語から距離をとり、逆に気分の罠に躓いてしまうことも起こりうる事態だと推察する。
 公平に見て、マンガ作家もぐこん(サークルmogravity装置)の全ての作品がその罠から逃れているわけではない。気分の方に寄っている作品も見受けられる。しかし、いくつかの作品では罠をすり抜け、他のマンガ表現にはない何かを描き出すことに成功している。では、その何かとは何か。

 いささか間の抜けた女子高生イトネの転校初日の一日の様子を描いたユーモラスな中篇が「転校生」2010である。(なお、単行本版2010とWeb 公開版(2007)では内容に違いがあり、単行本版は「転校生」と「放課後の残響」に加筆が加えられ再構成されたものとなっている。ここでは主題が明確になっている単行本版の方で話を進める)。
 初登校中に道に迷ったイトネは、美人だが風変わりな隣人・英子の案内を得て、無事学校まで辿りつく。学校ではクラスメイトから過剰なまでの歓待を受けるのだが、放課後居眠りから目を覚ますと、先ほどまでイトネがいたのとは全く別の教室におり、別の級友たちの姿がある。「転校なんてしないし」と独白するイトネは級友たちにさきほどまで過ごしていた世界を夢の話だとして話すが、それは本当にイトネの夢だったのか。それとも、今いる現実の方が夢なのか。
 大林宣彦の映画「転校生」は、男女の意識と記憶が入れ替わってしまう話だったが(勿論入れ替わってしまうのは意識と記憶ではなく身体の方だとも言える)、もぐこんのマンガ「転校生」は、イトネが存在する世界そのものが入れ替わってしまう話を描いている(勿論入れ替わってしまうのは世界ではなくイトネの方だとも言える)。つまり、この物語では世界そのものが転校してしまうのである。どちらが夢でどちらが現実かという区別はない。イトネが対面している世界がどちらの世界であるにせよ、イトネにとってどちらも等しく疑いようない現実である。
 65頁でフレームを切り取るカメラポジションが大きく切りかわる。それまでイトネと寄り添うように置かれていたカメラが、作品終盤になって学校の遠景を捉える位置に移動するのだ。 68頁では黒沢清の映画作品のようにカーテンがはためく教室の方へ、クレーンで移動しているかのようにカメラが近づいてゆく。外から覗ける空っぽの教室内には、クラスメイトが美術の時間に書いたイトネの似顔絵が貼られており、このショットで物語は不意に終わりを告げる。教室の壁一面貼られた似顔絵はいずれもイトネ本人とは似ておらず、見るものへ不安を抱かせる。この即物的なショットは強い印象を残す。それはこの得体の知れない客観的な視点の連なりから、何らかの気配を感じ取っているからなのかもしれない。思うに、この場面は目には見えない世界の気配を描こうとしているのだろう。具体的なカーテンの揺れといくつものイトネの似顔絵から、人気のないこの空っぽの教室で幾重にも息づく世界そのもののざわめきを。

 短編集「テッサータイプ」(2012)に収録されている「アスヘリカル」(2011)は、死んだ姉の部屋から気配を感じた妹が、姉と過ごした過去の時間を反芻する短編である。
 記憶の中の姉を呼び覚ましている妹の傍らで、姉は幽霊として存在している。粗野で美しい姉と対照的に悠長な妹の対比が面白く、描写される過去の情景は妹の記憶なのだろうが、気配以上の実体はない姉が妹の心境や独り言に相槌を打ったり、描写される過去の時間が不意に前後したりと反響し、まるでこの作品の構成が記憶そのもののように混濁している。妹は「姉さんが撮った最後の写真が見てみたい」と心境を独白する。姉は街の写真を撮りに深夜に外出した際事故死したのだ。
 終盤の67頁から、視点は妹の記憶の域を超え、事故直前の姉の様子を描いた情景に変わる。亡霊である姉自身の記憶だろうか。しかし、フレームは徐々に客観性を強め、姉の記憶の域を超えてしまっているように見える。それならば、これは一体誰の視点なのだろうか。67頁では交番のライト、屋内、屋根に潜む猫が描かれている。単に風景を描いただけのショットではないだろう。このショットでは、無生物であるものも含めてあの夜の姉を取り巻く現実が姉の姿を見ていたということを示唆している。それらを、世界と言い換えてもいいだろう。このシークエンスを読んでいると、まるで世界自身が過ぎ去った時間を再発見しているかのように錯覚してしまう。

 短編「気配」(2015)では、郊外の廃屋に身動きできない状態で監禁された小学生の少女を、その名の通り気配を擬人化したかのような少女が見守る短編である。
 気配そのものである少女は、物理的な意味では実体を持たず誘拐された少女の緊縛を解くことは出来ない。目隠しされた少女は気配に対して不安を抱くが、気配である少女に悪意はなく、そのすれ違いがほほえましい。最終的には気配は間接的な形で少女の発見を手助けすることが予見され、猟奇的な題材とは裏腹に善意を感じさせる話となっている。
 かくして、これまでもぐこんの作品で変奏されてきた気配という題材が、ここへ来て作品のタイトルへとまで到ったのである。こうなると、気配とはもぐこんがマンガ作品で描く重要な主題の一つといって間違いはないだろう。

 もぐこんが描こうとするものは、決して万人にとって咀嚼しやすいものではない。反時代的な安直な物語ではなく、だからといって単なる気分めいたものに浸っただけのお話でもない。その多くは目に見えるような具体的なものではなく、気配であったり、記憶であったり、場所であったり、この世界に潜む通常の視点では見過ごされかねない題材をマンガならではのやり方で探求している。
 そのような困難な題材に挑んでいる他のマンガ家といえば、真っ先に思いつくのは高野文子の名前である。そう考えると、もぐこんは高野文子の系譜に位置していると言えるだろう。そして、絵的な面でのみ多く見受けられる他の高野文子フォロワーとは一線を画しているとも言える。
 実際、短編集「シンプルライフ」(2010)に収録されている短編「街の日」(2006)では、高野文子の短編「美しき町」の主題を、ノスタルジーに誤解されかねない過去の視点からではなく、現代の視点からの物語に更新している。「街の日」の主人公ミキはこう独白する。
 「でも本当のことを言うと わたしはこの街の風景がそれほど好きじゃないんだな」(「シンプルライフ」38頁)
 もはや「街の日」の街には、「美しき町」のような昭和ののどかで美しい風景は存在しない。高野文子が参考にしたという川島雄三の映画作品のような情景から遠く離れ、ミキが住む街にあるのはもっと味気なく均一化した風景だ。それでも、亡霊のように謎めいた恋人の言葉に誘導されミキが辿りついた展望台から街を見下ろせば、殺風景なマンションやイオンがそびえ立つ郊外の閉塞した風景からも肯定の意思を感じ取ることが出来る。きっとこの時ミキが見た風景も経験した時間も、遠い未来には誰からも記憶されずに忘れ去られてしまっているだろう。「アスヘリカル」の姉が事故死した夜のように。
 「そういうものだ」(「テッサータイプ」68頁)
 だからといって、カート・ヴォネガットのような無常感はここにはない。それでもいいのだ。他の誰に知り得なくとも、その時間はこの世界に確かに存在したのだから。かつて美しき街の風景の時間があったように、今ではイオンやジャスコに彩られた風景が存在し、それらは形を変えながら遥か先の未来まで続いてゆくだろう。

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