別段淫蕩そうには見えない女性から中川さんと呼ばれる男性が言外でホテルに誘われる。シャワーを浴びる女性をベッドで待つ中川は、「やっぱ無理」と何もしないまま帰ることを決断する。どうやら彼は性に対して保守的な考えの持ち主のようだ。終電のない時間帯にホテルを飛び出しても問題はない。彼の趣味は歩くことだから。
ここまでたったの一頁。彼がどのような価値感を持ち、どのような趣味を持っているのか、この作品を構成する二大要素「セックス」と「ウォーキング」が効率的な説話のうちに示される。この語りの簡潔さ、経済性。
星里もちるのマンガ「夜のスニーカー」(2011)は、セックスに臆病な男性と、そもそも男性経験がないまま処女をこじらせた女性との関係を描くという、いかにも現代的だが、その実他ではお目にかかったことがない題材を扱った恋愛劇である。
「セックスはうんこ見せ合うみたいに恥ずかしいことなんだ。俺にとってはそれくらいの覚悟が必要なんだよ」( 6 頁)
異性とセックスをするには適切な手続きが必要だと説く主人公の会社員・中川の言動からわかるように、この作品はセックスを主題としながらも、そう簡単には恋人同士の濡れ場へと読者を導いてはくれない。中川の性交渉への慎重さは、過去の恋愛で受けた手痛い仕打ちに端を発しており、そのトラウマは早期の結合の成就を阻害することになる。
一方、ヒロインである女性のミサキの方はより難物である。彼女は自意識が肥大化し、上手く現実の自分と折り合いをつけることが出来ないでいる。彼女は慎重過ぎて、異性に限らずあらゆることに対して先回りをして考えてしまう癖があるのである。そして、そのような自分が相手に負担を強いていることを自覚しており、自縄自縛の状態に追い込まれ、身動きがとれないでいる。なんという入り組んだ悲しみ。まさにコンプレックス。合コンのシークエンスでのミサキの異性へ対するかたくな過ぎる態度を目の当たりにして、その時点で彼女に好意を持てる者は多くはないだろう。でも、先回りをして予防線を張ることで自分と他者との間に安全な距離を保ち、お互い傷つかない人間関係を装う状況を想定するのであれば、少なからず身に覚えを感じることが出来る。人間関係は確かに面倒だが、本来他者と付き合って行くということは、その面倒さを我が身に引き受けることでもある筈だ。その面倒さを避けようとすればするほど、その人は社会から疎外されてゆくだろう。ミサキのコンプレックスの根にあるものを思えば、彼女が迷い込んだ袋小路は決して他人事のようには思えない。
同作者の傑作「りびんぐゲーム」(1990-1993)ではバブル景気崩壊前後における都内の住宅問題を扱いながらも、同時に居場所とは何かということを若い男女が探し出そうと奮闘する物語が描かれていた。一方、この作品では夜の都内を共に歩くことを通して、若い男女間の心理的な距離の縮まりが描かれる。他人との距離をはかりあぐねた男女が、地図を使いルートを開拓し、時に反目し合いながらも歩調を合わせることでお互いの適切な距離を探り当てようと苦闘する。決して満ち足りた男女ではない。現実に対して何らかのわだかまりや疎外感を抱いているはぐれ者の二人である。孤独な都市生活者同士が、その孤独さを糊代にして共鳴し合い、自らの虚栄心を克服する。まるで山田太一脚本のテレビドラマのような設定の妙にうなってしまう。
性に対して慎重であることは、道徳や倫理が所詮建前であることを無意識にでも理解している現代人にとって、別段礼讃される美徳にはなりえないように、だからといってあけすけに性に奔放であることが称揚されている行いというわけでもない。結局、セックスへの正しい手続きなんてあるべき筈もないからだ。ただ、誰しもが性に対して奔放になれるわけではない。他人との距離の保ち方をはかりあぐねたミサキのような人間は、恋人との踏み込んだ関係を作ることすら慎重になってしまう。セックスは自分と相手との距離をなしにして、ゼロ距離で結合するのだから。
とはいえ、セックスへ到ることで男女間の問題を解決できるという考え方は、短絡的なファンタジーであるように思える。恋人同士の生活はその後もずっと続いてゆくし、そこにこそ真の困難が立ち塞がっているのだから(勿論、星里もちるは男女のセックスが成就したその先を描いてきた作家ではあるが)。それでも、セックスの成就が当事者たちにとって切実な救済になりうることもある。この作品では、お互いの苦痛を癒やし愛情を確認し合うための物語上要請として、クライマックスに男女の結合のシークエンスが配置される。互いの距離がゼロになる、いわば心理的にも肉体的にも絶頂を迎える瞬間が同時に訪れるのである。面倒ではあるが二人にとっては適切な手続きを経て、彼らはようやくお互いの距離を踏み越えることが出来たのだ。そのように性行為をとっかかりにして、心がわだかまっている若い男女のこわばった関係を、この作品は丁寧に解きほぐしている。
ここまでたったの一頁。彼がどのような価値感を持ち、どのような趣味を持っているのか、この作品を構成する二大要素「セックス」と「ウォーキング」が効率的な説話のうちに示される。この語りの簡潔さ、経済性。
星里もちるのマンガ「夜のスニーカー」(2011)は、セックスに臆病な男性と、そもそも男性経験がないまま処女をこじらせた女性との関係を描くという、いかにも現代的だが、その実他ではお目にかかったことがない題材を扱った恋愛劇である。
「セックスはうんこ見せ合うみたいに恥ずかしいことなんだ。俺にとってはそれくらいの覚悟が必要なんだよ」( 6 頁)
異性とセックスをするには適切な手続きが必要だと説く主人公の会社員・中川の言動からわかるように、この作品はセックスを主題としながらも、そう簡単には恋人同士の濡れ場へと読者を導いてはくれない。中川の性交渉への慎重さは、過去の恋愛で受けた手痛い仕打ちに端を発しており、そのトラウマは早期の結合の成就を阻害することになる。
一方、ヒロインである女性のミサキの方はより難物である。彼女は自意識が肥大化し、上手く現実の自分と折り合いをつけることが出来ないでいる。彼女は慎重過ぎて、異性に限らずあらゆることに対して先回りをして考えてしまう癖があるのである。そして、そのような自分が相手に負担を強いていることを自覚しており、自縄自縛の状態に追い込まれ、身動きがとれないでいる。なんという入り組んだ悲しみ。まさにコンプレックス。合コンのシークエンスでのミサキの異性へ対するかたくな過ぎる態度を目の当たりにして、その時点で彼女に好意を持てる者は多くはないだろう。でも、先回りをして予防線を張ることで自分と他者との間に安全な距離を保ち、お互い傷つかない人間関係を装う状況を想定するのであれば、少なからず身に覚えを感じることが出来る。人間関係は確かに面倒だが、本来他者と付き合って行くということは、その面倒さを我が身に引き受けることでもある筈だ。その面倒さを避けようとすればするほど、その人は社会から疎外されてゆくだろう。ミサキのコンプレックスの根にあるものを思えば、彼女が迷い込んだ袋小路は決して他人事のようには思えない。
同作者の傑作「りびんぐゲーム」(1990-1993)ではバブル景気崩壊前後における都内の住宅問題を扱いながらも、同時に居場所とは何かということを若い男女が探し出そうと奮闘する物語が描かれていた。一方、この作品では夜の都内を共に歩くことを通して、若い男女間の心理的な距離の縮まりが描かれる。他人との距離をはかりあぐねた男女が、地図を使いルートを開拓し、時に反目し合いながらも歩調を合わせることでお互いの適切な距離を探り当てようと苦闘する。決して満ち足りた男女ではない。現実に対して何らかのわだかまりや疎外感を抱いているはぐれ者の二人である。孤独な都市生活者同士が、その孤独さを糊代にして共鳴し合い、自らの虚栄心を克服する。まるで山田太一脚本のテレビドラマのような設定の妙にうなってしまう。
性に対して慎重であることは、道徳や倫理が所詮建前であることを無意識にでも理解している現代人にとって、別段礼讃される美徳にはなりえないように、だからといってあけすけに性に奔放であることが称揚されている行いというわけでもない。結局、セックスへの正しい手続きなんてあるべき筈もないからだ。ただ、誰しもが性に対して奔放になれるわけではない。他人との距離の保ち方をはかりあぐねたミサキのような人間は、恋人との踏み込んだ関係を作ることすら慎重になってしまう。セックスは自分と相手との距離をなしにして、ゼロ距離で結合するのだから。
とはいえ、セックスへ到ることで男女間の問題を解決できるという考え方は、短絡的なファンタジーであるように思える。恋人同士の生活はその後もずっと続いてゆくし、そこにこそ真の困難が立ち塞がっているのだから(勿論、星里もちるは男女のセックスが成就したその先を描いてきた作家ではあるが)。それでも、セックスの成就が当事者たちにとって切実な救済になりうることもある。この作品では、お互いの苦痛を癒やし愛情を確認し合うための物語上要請として、クライマックスに男女の結合のシークエンスが配置される。互いの距離がゼロになる、いわば心理的にも肉体的にも絶頂を迎える瞬間が同時に訪れるのである。面倒ではあるが二人にとっては適切な手続きを経て、彼らはようやくお互いの距離を踏み越えることが出来たのだ。そのように性行為をとっかかりにして、心がわだかまっている若い男女のこわばった関係を、この作品は丁寧に解きほぐしている。
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