文章を書くのは苦手だし、筋道立った思考だって苦痛だ。
それでも、自分が書かなければと思ったマンガの感想を記しておきます。

2015年11月3日火曜日

天国を出ていく 安永知澄「赤パン先生!」(エンターブレイン)

 大人に比して子どもを主役にしたマンガ表現が多い一因として考えられるのは、大人になると社会のルールと妥結するための退屈な常識を身につけざるを得ないのに対して、子どもはむきだしの現実に対して社会に飼い慣らされる前のナマの状態でぶつかっていくことが出来るからだろう。しかし、悲しいかな。いつか子どもの時間には終わりがくる。だから、子どもを主役に据えたマンガ表現の多くは、通過儀礼を主題にしている。子どもから大人へと変化する方法は作品によって多種多様だ。死を知ったり、内なる邪さの手なずけ方を学んだり、この世界が自分だけのものではないと認識したり。その一番過激な例として、楳図かずおの諸作品が挙げられる。子どもは生まれた時から時限装置を抱えており、タイマーが0まで減算した瞬間、本人の意思とは無関係に、半ば暴力的に大人という存在に変身させられてしまう。大人は子どもとは完全に異質な生き物であり、決して後戻りすることが出来ない。この認識の透徹さ。

 安永知澄のマンガ「赤パン先生!」(20122014)もまた、通過儀礼を主題にしたマンガ作品の一つと言える。子どもの頃の、まるで天国に身を浸しているかのように安全な感じ。世界と自分の境目がないまま一緒くたになって、悪い予感が一切しない幸福そのものの状態。エリナー・ファージョンの物語作品で描かれる天国の住人のように眩しい小学生のきらが、一夏を過ごしていく中で経験する出来事に苦悩し、傷を負い、もはや子どものままではいられなくなる物語である。きらが泳ぐプールの水しぶきや泡ぶくが、生き物のように彼女にまとわりつき、その幸福をプリズムのように乱反射させる。彼女の天国の時間の紗がかかったうつくしさに、読む者は自らの記憶をなぞらえながら酔いしれることだろう。

 安永知澄のマンガ作品を読んで目をひくのは、その独特な身体性とも結びついていること細かな心理描写である。というのも、自分が子どものときに確かに感じたが、他の誰とも共有できないまま忘れ去ってしまっていた後ろめたさやわだかまりのような名状しがたい感情が、「そういう感情は確かにあった」とちゃんと作品内に記録されているからである。人が大人になるにつれ不要なものとして捨て去った言外のものを、この作者はずっと手放さずに保管してきたのだ。だからだろう。時に、自分が忘れていた筈の秘密を覗き見られたかのような面映ゆさを感じるのは。
 ただ一方で、描写からじめじめとした湿っぽさや暗さ―誤解を恐れずに言うと、悪い意味での文学性みたいなものが匂い立ってくる時もあり、それもまた安永知澄の作家性なのだろうが、自分とは上手く関係を結べず居心地の悪さを感じることがある。それでも、きらの腹違いの姉・庸子のような胸に穴が穿たれた大人だけではなく、きらのようなすこやかな子どもが描かれる際、その暗さは押し留められ中和される。

 2巻の終盤で、天国を追われ羽根をもがれ打ちひしがれたきらは、密かに恋慕の情を抱く臨時の水泳教師・鮎川が運転する車の助手席に座ることになる。きらのことを子どもだと思い込んで、異性として気にも留めていない鮎川のすぐ横で、きらは子どもから大人という存在へ脱皮しかかっているように見える。ほんの少し前まで天国の住人だったきらが、無意識にでも性的なものを身に纏わせていることに息を呑む。きらが無事に家まで送り届けられた後、姉の庸子は鮎川とその夜逢引する約束を取り付ける。車に残ったきらの気配を、自分自身のもので塗り潰すためにだ。実は庸子と鮎川は秘密裏に交際しており、きらはまだその事実を知らされていない。庸子は本来自分だけのものの筈だった両親の愛を一身に受けて産まれ育った妹のきらに対して、恐れとも嫉妬ともつかないコンプレックスを抱いている。まだ心身ともに成熟し切っていないきらのことを侮ることなく、ちゃんと一個の女と捉えて警戒する庸子の認識から凄みを感じる。
 ほとんど台詞のない4巻の最終話では、叙事的でありながらもほのかな抒情を漂わす物語の幕引きが描かれる。息を切って山道を突っ切り、ダムを通り過ぎた先にある高台に立つきらは、自分が住む村落の景色を一望にし、思いをはせる。この場所には自分がいて、家族が住む家があり、クラスメートと過ごす学校がある。そして、その外側には庸子と鮎川が移り住むさつき市や、広大な世界と大勢の見知らぬ他者が存在していることだろう。彼女の将来の可能性も無限に広がっているかもしれないが、同時にそれはその可能性が幸福なものとも彼女の思い通りにいくものとも限らないことを意味する。世界を俯瞰する視座は、きらと世界の合致を解きほどき、他者の存在を彼女に知らしめる。彼女はもう二度と天国には戻れない。この夏に経験した出来事―むきだしになった現実を目の当たりにして、この世界が自分だけのためのものではないという秘密を知ってしまったからだ。きらが記憶に刻もうとする胸の鼓動は、そっと子どもの時間の終わりを彼女自身に告げている。この最終話のつつましいうつくしさは、いつまでも忘れ得ないだろう。

2015年11月1日日曜日

セックスの正しい手続き 星里もちる「夜のスニーカー」(集英社)

別段淫蕩そうには見えない女性から中川さんと呼ばれる男性が言外でホテルに誘われる。シャワーを浴びる女性をベッドで待つ中川は、「やっぱ無理」と何もしないまま帰ることを決断する。どうやら彼は性に対して保守的な考えの持ち主のようだ。終電のない時間帯にホテルを飛び出しても問題はない。彼の趣味は歩くことだから。 
 ここまでたったの一頁。彼がどのような価値感を持ち、どのような趣味を持っているのか、この作品を構成する二大要素「セックス」と「ウォーキング」が効率的な説話のうちに示される。この語りの簡潔さ、経済性。

 星里もちるのマンガ「夜のスニーカー」(2011)は、セックスに臆病な男性と、そもそも男性経験がないまま処女をこじらせた女性との関係を描くという、いかにも現代的だが、その実他ではお目にかかったことがない題材を扱った恋愛劇である。
 「セックスはうんこ見せ合うみたいに恥ずかしいことなんだ。俺にとってはそれくらいの覚悟が必要なんだよ」( 6 頁)
 異性とセックスをするには適切な手続きが必要だと説く主人公の会社員・中川の言動からわかるように、この作品はセックスを主題としながらも、そう簡単には恋人同士の濡れ場へと読者を導いてはくれない。中川の性交渉への慎重さは、過去の恋愛で受けた手痛い仕打ちに端を発しており、そのトラウマは早期の結合の成就を阻害することになる。
 一方、ヒロインである女性のミサキの方はより難物である。彼女は自意識が肥大化し、上手く現実の自分と折り合いをつけることが出来ないでいる。彼女は慎重過ぎて、異性に限らずあらゆることに対して先回りをして考えてしまう癖があるのである。そして、そのような自分が相手に負担を強いていることを自覚しており、自縄自縛の状態に追い込まれ、身動きがとれないでいる。なんという入り組んだ悲しみ。まさにコンプレックス。合コンのシークエンスでのミサキの異性へ対するかたくな過ぎる態度を目の当たりにして、その時点で彼女に好意を持てる者は多くはないだろう。でも、先回りをして予防線を張ることで自分と他者との間に安全な距離を保ち、お互い傷つかない人間関係を装う状況を想定するのであれば、少なからず身に覚えを感じることが出来る。人間関係は確かに面倒だが、本来他者と付き合って行くということは、その面倒さを我が身に引き受けることでもある筈だ。その面倒さを避けようとすればするほど、その人は社会から疎外されてゆくだろう。ミサキのコンプレックスの根にあるものを思えば、彼女が迷い込んだ袋小路は決して他人事のようには思えない。

 同作者の傑作「りびんぐゲーム」(1990-1993)ではバブル景気崩壊前後における都内の住宅問題を扱いながらも、同時に居場所とは何かということを若い男女が探し出そうと奮闘する物語が描かれていた。一方、この作品では夜の都内を共に歩くことを通して、若い男女間の心理的な距離の縮まりが描かれる。他人との距離をはかりあぐねた男女が、地図を使いルートを開拓し、時に反目し合いながらも歩調を合わせることでお互いの適切な距離を探り当てようと苦闘する。決して満ち足りた男女ではない。現実に対して何らかのわだかまりや疎外感を抱いているはぐれ者の二人である。孤独な都市生活者同士が、その孤独さを糊代にして共鳴し合い、自らの虚栄心を克服する。まるで山田太一脚本のテレビドラマのような設定の妙にうなってしまう。

 性に対して慎重であることは、道徳や倫理が所詮建前であることを無意識にでも理解している現代人にとって、別段礼讃される美徳にはなりえないように、だからといってあけすけに性に奔放であることが称揚されている行いというわけでもない。結局、セックスへの正しい手続きなんてあるべき筈もないからだ。ただ、誰しもが性に対して奔放になれるわけではない。他人との距離の保ち方をはかりあぐねたミサキのような人間は、恋人との踏み込んだ関係を作ることすら慎重になってしまう。セックスは自分と相手との距離をなしにして、ゼロ距離で結合するのだから。
 とはいえ、セックスへ到ることで男女間の問題を解決できるという考え方は、短絡的なファンタジーであるように思える。恋人同士の生活はその後もずっと続いてゆくし、そこにこそ真の困難が立ち塞がっているのだから(勿論、星里もちるは男女のセックスが成就したその先を描いてきた作家ではあるが)。それでも、セックスの成就が当事者たちにとって切実な救済になりうることもある。この作品では、お互いの苦痛を癒やし愛情を確認し合うための物語上要請として、クライマックスに男女の結合のシークエンスが配置される。互いの距離がゼロになる、いわば心理的にも肉体的にも絶頂を迎える瞬間が同時に訪れるのである。面倒ではあるが二人にとっては適切な手続きを経て彼らはようやくお互いの距離を踏み越えることが出来たのだ。そのように性行為をとっかかりにして、心がわだかまっている若い男女のこわばった関係を、この作品は丁寧に解きほぐしている。