文章を書くのは苦手だし、筋道立った思考だって苦痛だ。
それでも、自分が書かなければと思ったマンガの感想を記しておきます。

2016年8月29日月曜日

三文未来の愛のゆくえ 庄司創「白馬のお嫁さん」(講談社)

 庄司創「白馬のお嫁さん」(2014-2016)は、近未来の日本で男子高校生たちが嫁探しに奮闘する婚活マンガである。
 遺伝子改造こそされてはいるが性的には異性愛者の男性の清隆は、3巻で自身が抱えている問題が解消されたことで突如として婚活仲間の学への恋愛感情を自分が持っていることに気付く。学は外見こそ可愛らしい女性に近いが、人工的に遺伝子を組み換えられて特殊な生殖器を持つ「産む男」であり、恋愛対象は異性の女性のみである(「産む男」の性的指向は様々であり、同姓である男性を好きになるタイプも存在する)。性別だけでなく、学の理想のタイプからも自分がかけ離れていることから、清隆はこの恋愛から降りることを選択し、大切な友人である学の幸福を支えることもまた己の幸福であると強引に自分を納得させようとする。
 一方、密かに清隆の自分への気持ちを知った学は、ヴァーチャルルームで仮想の清隆の胸に抱かれてみても恋愛感情を一切感じることが出来ないことを改めて認識する。清隆へ感じている学の親愛の情は、あくまで友情であって恋愛感情ではないのだ。ただ、ロボット注射のアシストがあれば、自分の性的指向を変化させ、同姓である清隆を好きになることも出来るかもしれないと考える。
「でも そこまでするべきなんだろうか」(「白馬のお嫁さん」3巻186頁)
 それをしてしまったら、学は清隆に限らず他の人間だって同じように受け入れてしまえることを意味する。学は自分が理想とするような女性からアプローチをかけられている最中でもあるのだが、清隆を拒否して彼女を受け入れることで抱く罪悪感だって、薬を利用してしまえば消すことが出来るのだ。女性的な外見を持つ学に対して、素直に異性へ向けるのと近い恋愛感情を抱ける清隆と較べ、自分自身に対しても相手に対してもより難しい選択を迫られる学の煩悶が、スリリングなまでにこちらに伝わってくる。学は清隆の気持ちを受け入れることが出来るんだろうか? 

 愛と聞くと、ジョン・カサヴェテスや増村保造の映画作品で描かれるような激烈なものがまず頭に浮かぶが、作中「産む男」の一人である主馬のエピソードで描かれているように、恋愛至上主義ではなく、恋愛から自由になる心の在り方だってある。相手に胸を一度もときめかせることがないまま、それでもその人を生涯の伴侶として受け入れることだって出来るのだ。
 人は恋をすると、それまで客観的に見れていた筈の世界が、好きになった相手一色に染まってしまい、それ以外のものが一切目に入らなくなってしまう。そういう時、人は周囲を顧みず相手のために自分が持つ全てをかなぐり捨てて愛に殉ずることだって出来る。一般的にそういう純愛は尊いものとされるが、じゃあ恋から始まっていない関係や、打算や他者への配慮が混じった「不純」な恋愛は、紛い物なのだろうか? 自分は「真実の愛」のようなもっともらしい言葉の方にこそ迷信を感じる。未来の技術のアシストがあれば、脳内の化学物質の分泌を薬で調整することによって、嫌いな相手へすら愛情を感じることが可能になるかもしれない。人が自分自身の意思で自由に選択出来ていると思いこんでいるものの大半は、実際は脳内物質の働きや社会制度によって大きく左右されるものでしかないのだろう。不倫や重婚だって、実際はそれ自体が悪なのではなく、今の社会制度でたまたま悪いことだと規定されているだけでしかない。人が疑いなく自明のものとして受け入れているほとんどのことは、たまたまそうであっただけなのだ。
 3巻の終盤、学が恋愛感情を抱いていない清隆に対してどのような決断を下すのかが描かれる。これまで清隆とシェアハウスで暮らす「産む男」たちが繰り広げてきた恋愛の騒動で得られた知識や教訓も学に影響を与えているのかもしれないし、学が清隆に告白する「不安やつらさを含んだ複雑な好きの美しさ」の下りも一つの答えになっているのかもしれない。ただ、WOLVESによって「産む男」プロジェクトが誕生した経緯の真相等と較べると、清隆の気持ちを受け入れるに到る学の心情の変化の部分は、上手く表現し切れているとは思えない。その飛躍は理屈を超えたものなのかもしれないが、物語展開の盛り上がりの勢いで煙に巻かれてしまっているようにも感じる。
 それでもなお、これは読まれるべき果敢な作品であることに間違いない。強引な言い方かもしれないが、ジェンダーを取り扱った他の作品が辿り付けていない高みへまで、このマンガは行きつけていると思う。

 3巻の単行本のカバー裏には、病院内で緊張した面持ちで見守る清隆の傍らで、瞼を閉じたままの学がロボット注射を受けている場面が描かれている(おそらく同性への性的指向を持つことが出来る化学物質を分泌させるナノマシンのようなものが注入されているのではないだろうか)。個室へ案内され、薬が効き始めてからは清隆の顔を見つめ続けるよう学は看護師から指示を受ける。そっと目を開いた学は、清隆とお互いの顔を見つめ合う。学の表情は病院の窓から射す陽光のように柔らかく、穏やかだ。二人の表情に微かな戸惑いは残っているものの、悪い不安のようなものは見当たらない。
 本編に含まれていないのが悔やまれるくらい、この場面の美しさには震えてしまう。未来の科学技術で変容した性や愛のありようが、グロテスクにでもディストピアのようにでもなく、ごく自然に肯定的なものとして描かれていて、畏敬の念すら抱いてしまう。こんな風にテクノロジーで作られる愛の形があっていいし、未来の世界には実際にありえて欲しい。「産む男」が存在する世界の方が、自分が今生きる「産まない男」しかいないこの世界よりも、ずっと良さそうに見える。きっとグレッグ・イーガンにだって、村田沙耶香にだって、こんな未来のありようは幻視出来ないだろう。二人が生きる世界が羨ましい。

「白馬のお嫁さん」3巻より
ロボット注射を受ける学とそれを見守る清隆

2016年4月18日月曜日

地上より彼方へ 竹良実「地の底の天上」「辺獄のシュヴェスタ」(小学館)

 デビュー作でいきなり完璧な作品を描いてしまうマンガ家がいる。例えば「三文未来の家庭訪問」(2009)の庄司創がそうだし、「地の底の天上」(2014)を描いた竹良実もまたそういう作家の一人である。
 中編「地の底の天上」は、紙幣の原版彫金師と贋作師である二人の男女が生きた様を描いた作品である。贋札を題材にした創作物として真っ先に思い出すのは、ロベール・ブレッソンの映画「ラルジャン」だが、「地の底の天上」もまたそれに劣らぬ水準の傑作だと言っても言い過ぎにはならないだろう。この作品で語られる内容の気高さには、読んでいて思わず頭が下がってくる。何度読み返しても、読むたびにその大きさに圧倒されてしまう。孤独を糊代にして繋がる人間の魂を描いた作品として、自分はこれ以上のものに出会ったことがない。

 中世の西欧で流通していた贋札という反社会的なものを介して、名も顔も知らない二人の男女がお互いの精巧な技術から芸術を見出し、その背後にいる作者の存在を意識する。地の底とも言える暗く冷たい作業場で自分が習得した技術を、この相手なら理解してくれるに違いないと。生まれも立場も違う見知らぬ二人が、相手がどのような姿をしてどのような人間なのかもわからないまま、ただその紙幣を通してお互いの存在を思い続け、支えとするのである。彼らは現実においては社会から疎外された弱い存在だが、紙幣とその贋札を媒介とし、実は自分が決して一人ではないことを知る。自分のいびつな魂には、対となるべきものが存在するのだと。
 彼らがその生で世に誇れる唯一の存在証明は贋札の技術であり、例えどれだけ今生において孤独だとしても、紙幣の作成へ没頭している間だけは天上の境地まで駈け上がることが出来る。
 ひょっとしたら、彼らはこの地上で対面して会う必要すらないのかもしれない。空想上の天上において、二人の魂は生身の肉体以上に強く繋がることが出来るのだから。とはいえ、この作品のクライマックスは、実際に二人がこの地上において出会う場面なのである。
 馬車の窓越しに握られる二人の肥厚した皮膚に覆われた荒れた手と手が、相手が自分の不完全な魂のかたわれであることをお互いに認識させる。単なる手のまじわりだが、それがこれほどまでに雄弁なものになるだなんて。例えどんなにエロチックな濡れ場であろうとも、このシークエンス以上に二人の繋がりを深く感じさせることは出来ないだろう。
 貨幣といういかにも俗な媒体に、それとはかけ離れた崇高な魂を仮託して、地上から天の彼方へまで繋がる見事な奏でが聞こえてくる。二人の魂が結びついてゆくみちすじが、この上なく荘厳な調べとなって、読む者の胸を響かせるのだ

 現在連載中の「辺獄のシュヴェスタ」(2015‐)もまた、中世の西欧を舞台にした歴史ものである。「地の底の天上」と同じように、歴史の余白には、今では名も残らぬ人たちによってつむがれた知られざる営みがあった。作者は何も知らない読者に、ある少女の密かな戦いの真実をひもといてくれる。

 魔女狩りで家族を失った少女エラは、修練女として収監された修道院の中で修道会の総長への復讐を誓う。復讐を完遂するために、どれほど凄惨な状況に身が落魄しようとも、己の中の魂を相手に明け渡そうとしないエラの気位の高さには感服する。だが、エラには人間離れした胆力があり、時に賢者のような洞察を持ち、時に鬼神のような選択を採るため、いかにも人間的な弱さを披歴してくれる彼女の仲間達とは違い、読む側からの単純な感情移入を許さない。
 「辺獄のシュヴェスタ」からは、高い水準での倫理性のようなものが感じられる。倫理と言っても、それは単純さで世界を無神経に切り分けてしまうような意味での倫理ではない。聞こえのいい正論や建前をふりかざしたりもしない。むごたらしい暴力と常に隣り合わせであるこの作品世界の前では、そのような無神経さは通用しないのである。
 考えることなしに世に流通されている倫理を盲目的に信じてしまえば、真の意味での倫理からは遠のいていく。例えばエラが放り込まれた修道院で信じられているキリスト教で言うならば、真に倫理的な信徒がキリスト教が説く倫理について真摯に考えれば考える程、その信徒はその強い倫理性ゆえにキリスト教の教義を根幹から切り崩し、内側から食い破ってしまうことだろう。
 このマンガの中でのキリスト教は道具立て以上のものではないかもしれないが、エラ自身もまた己の倫理と格闘をしている。素朴に信仰されている倫理に目を曇らされないように、同時に倫理を足枷だとして投げ捨てないように、そしてどちらにも与せず、彼女は己の中の真実とどのように折り合いをつけて行くのか。読者に出来ることと言えば、彼女の行く末を案じながら、作者の語りに耳をそばだてることだけではあるが。


「辺獄のシュヴェスタ」1巻より
屈辱的な貞操の検査をされようと、彼女は彼女自身の王として君臨し続ける